トークイベント「事業者が語る被災地の今」ヤマジュウ、歌津小太郎
2013-03-09


歌津小太郎の千葉社長からは元々は漁師だったが水産加工へ転身、10年くらい盛岡へ売りに行っていたら仙台の藤崎百貨店から出店しないか?と声をかけられたそうです。
デパートというものは高級なものしか売らないと思っていたので自分たちの商品のような素朴なものが売れるのか?とも思ったが初日からよく売れ、常連さんもついて毎年20%くらい成長をしていたのが津波で工場を失ってしまいました。

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ご自身も一旦は避難したものの、工場に一旦戻り津波が来たので慌てて神社のある高台に避難されたそうですがその時の様子も生々しく語っておられました。

津波が引いた後、息子たちはしばらく復興までに時間がかかるからまずは地域のために働きたいと話されて実際に行動したという事も話していました。南三陸町は役場も被災したため完全に孤立してしまい、ラジオを聞いていても音沙汰がない状況だったそうです。

1週間くらいしてようやくヘリコプターで支援物資が届くようになるまでは自動車からガソリンを抜いてきて火を燃やして暖をとったりしのいでいたが、その後軽自動車くらいが通れるように道を作って物資が届くようにインターネットで訴えたりといったこともしていました。

少し落ち着いてから息子たちは未来道という避難用の道路の建設にとりかかりました。
7月には福井県から重機を持ってきてくださる方なども集まり、41人の権利者からの許可を取り付けて9月には道を完成させました。今も息子は地域のためには道の駅が必要だろうと歌津の道の駅の代表になっています。

地域のために働いた後に自分たちの会社の復興に着手したものの、当初3,000万円くらいで工場を再建できる見込みが資材の高騰などで倍の6,000万円もかかってしまいました。
国に対して希望はあるか?と言われたら全然足りていないので何をするにしても余計なことというものはありません。

いよいよ3月11日には仙台の藤崎百貨店への出店も再開します。仙台の皆さんに歌津の今を知ってもらう事から恩返しをしていきたいです。

皆さんにお伝えしたいのは東海地震など日本では他にも大きな地震が予想されているけれども津波が来た時にはまず自分の身を第一に避難すること。厳しいことを言うようだが実際に現場は地獄のようなもの。
そしてしっかりした保険に入っておくこと。被災地では加入していた保険によっても復興にかけられるお金に大きな差が出ています。

 被災地からのレポート(歌津小太郎)


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